頑張りは報われるという望み

 

どこかの場面で必ず聞いたことがある。

 

頑張りや努力は報われるという言葉。

 

誰が言いはじめたのかも分からないけども、

人生でどこかの場面では聞く言葉。

 

 

でも、経済的にも世界情勢も安定が不安定に変わっていくとともに、

この言葉に望みをかける人もだんだんいなくなっただろう。

 

この言葉に対して、否定的な感情を持つ人、違うとはっきり主張する人も多いことも事実だろう。

 

報われることを期待しない方が傷付かずに済むのならと思い、私も努力や自分の頑張りが

報われることを諦めた方の人間である。

 

 

社会人1年目を終えるこの時期にこんな冒頭で始まるブログを書く私は自分でも大丈夫かと思う。

 

事実、大丈夫ではなかった場面も多々あっただろう。

 

 

自分が耐えたら誰にも迷惑を掛けなくていいと思い、少しずつネガティブな感情や出来事は

自分の中である程度消化してから、冗談ぽく話すことが私の中でのルールだった。

 

それで何度も耐えて、乗り越えてきた。

 

でも、時々自分1人では耐えれなくて、

 

日々すり減っていく心を無視し続けて、SNSや他の楽しみに目を向けて、

逃げて、みなかったことにし続けてたら時々些細なことで感情が溢れ出して止まらないことがあった。

 

それが1人でいる時もあれば、誰かといる時もあった。

 

 

そう思うと、感情は安定していなかった。

 

でも、日々チクチクと何かしらですり減った心を隠すのはきっと上手くなった。

 

大丈夫じゃなくても大丈夫と振る舞えるようになり、そんな大人になった。

 

こんな私でも昔は常に感情が大爆発するタイプの人間だった。

 

でも、そんな大人になった背景には、周りも大丈夫じゃない人がいることに気づいたこともある。

 

私よりも歳離れた大人の人でも、このパンデミックや戦争、日々流れる不安や心配を増大させるニュース、

日々の小さな会話の中でモヤモヤを抱いている。

 

完全に大丈夫な人はきっといない。

 

 

私は聖書を読む人間だが、聖書に描かれるクリスチャンもそしてイエスさまも

毎日大丈夫な人はいなかった。

 

エス様も怒ったし、悲しんだし、もどかしさも感じていた。

聖書を熱く伝え続けたパウロも死、誰かから向けられる憎悪、悪意なんかと沢山戦いながら、

それでも彼の情熱は消えることなく福音を伝え続けた。

 

だからと言って、日本というほとんどの人が銃を持たず、死と日々となり同士なんて状況ではない場所で生きる我々が

良い状況かと言われればそうではない。

 

理不尽やSNSで友達がキラキラした日々を送る姿をお家で1人寝転がりながら見て、なぜかそんな自分に嫌気がさしたり、

(だって家でゴロゴロは何も悪くない、むしろその時間がSNSでは映えないけど、それが必要な自分がいるのも事実だから)

ちょっとした言葉が他の人の心に悪いように残らないか、を気にしたり。。。

 

 

現代人は戦うものが多い。

 

それも個人戦

 

そんな中で、頑張っても報われるは酷である。

 

情熱であり続ける方が難しい。

 

情熱を邪魔するものが沢山ある。

 

 

 

 

でも、今のこのままでは嫌なのも事実である。

 

全然まとまらないけど、つまりはこの状態でどうすれば今よりもう一歩進むことができるか。

 

進めなくても、また歩みを始めれるように今どう立ち止まるか。

 

進めず立ち止まっていても、前を少しでも向ければその立ち止まりは正解だと思った。

 

頑張るや努力は前向きだけど、立ち止まるやおやすみは後ろ向きでネガティブに捉えられる場合もある。

 

だけど、将来前に進むためのエネルギーチャージができるのなら、きっとそのストップもお休みもちゃんと

頑張ると努力と同じくらい大事だと思う。

 

 

私は感情がコントロール不能になると、一度シャットダウンすることがよくあった。

 

スマホOFF、外に出ない、お家でぼーっとする。時々、辛いこと思い出して、1人で涙を流す。

 

これを昔は罪悪感を持ちながら、シャットダウンしていた。

 

でも、これを繰り返すうちに気づいたのは、これは再起動するためのシャットダウンだということ。

 

 

 

今は仕事があるから、という社会的責任が増えたのもあり、一切しなくなった。

(土日休んでも、どうせまた月曜日仕事だし、これ以外でモヤモヤ解消しようという思考が今はあるけど、

この先どうなるかは私も分からない)

 

でも、あのシャットダウン期間は私には必要な休みだった。

 

人から離れることで私は1人ではなかったことに気付いたし、

誰かを頼らずに自分のことに向き合う時間も持てた。

 

 

きっとクリスチャンになっていなければ、この期間は病みとして扱い、

ポジティブではない自分は間違っていると認識で終わっていたと思う。

 

でも、クリスチャンとして全てが益になることを知っているから、

その時は死にたいくらい辛くても、後になって肯定的に振り返ることができた。

 

クリスチャンは何も知らない人から見れば全く訳のわからない集団だけど、(私も過去そうだった)

良いことがあることをここに誰が見るのか分からないけれどもこうして残していこうと思う。

 

 

 

 

気が向いたら。

 

the year of 2022

 

大学生から始めたこの(マイペース更新)ブログですが、社会人になり時間に制約が生まれた中で

 

もう書かないかもと思いましたが、ちゃんと後から見返して神様がしてくれたことを残したくてマイペースでも更新することにしました。

 

昨年を振り返ると、沢山の出会いがありました。

 

卒業論文の発表ではじめましての方にキリスト教会についてお話しした1月。

 

その後、聞いてくださった学生の方々のフィードバックを見て、テーマを教会にして良かったと思いました。

 

沢山学生がいるけど、私が書ける内容は教会のことしかないって思ってテーマを決めたけど、やっぱり教会のことを書く中で

 

日本では教会やクリスチャンに関することが広まっていないからこそ、

 

何気ない言葉に少し傷ついてしまったり、自分の言葉で、なおかつ論理的に説明することの難しさにぶつかったり、

 

沢山の壁を乗り越えなければいけませんでした。

 

でも、その壁を乗り越えたら、色々な人に教会について知ってもらうきっかけになったりして本当に良かったと思えて、

 

無事3月、大学を卒業しました。

 

そして、4月に就職。

 

初めてだらけの毎日。

 

人も環境も一気に変わったことで不安の連続でした。

 

約2時間かけての通勤は早起き苦手な私にはチャレンジ以外、なにものでもなくて…笑笑

 

でも、毎日1日、1歩ずつ進めたのは、「神様」と「教会」のおかげでした。

 

正直、最初の頃の記憶は、結構しんどかったのかほぼ記憶にないです笑。

 

都合の良い私の脳みそです🧠。

 

 

 

でも、だんだん楽しくなっていきました。

 

 

沢山の時間を共有するうちに、コミュニケーションを沢山取って、

 

変に入っていた肩の力を抜くことができて(たまに抜きすぎてミスってお叱りを受けて)、

 

変に気を張って「仕事の私」みたいなのを作らずに、お仕事ができるようになった中で、

異動の話が浮上しました。

 

勤務場所をもっと家から近いところにしてあげようという思いがあったそうで、

 

2時間の通勤が30分に変わることは十分魅力的でした。

 

でも、決して2時間がしんどかったかと問われるとそうではなかったです。

 

1人の時間が持てたことは、大きな支えの1つでした。

 

仕事で辛いことあっても帰り道の中で祈ったり、聖書を読んだり、賛美を聞いたりして、

自分の中で、辛いことを消化できる時間でもありました。

 

1年目でできないことだらけの自分が悔しくてたまらなかったし、

もっと色々勉強してたら良かったとか後悔もしたし、

辞めたいも数え切れないくらい思ったけども、

 

異動はしたくない!

 

って思っていました。

 

でも、やっぱり異動が決まりました。

 

取り扱う商品を見ることや、大きなトラックや機械を見ることが純粋に楽しかった日々も終わり、

 

1年目で何もできない私に、仕事のことを1から教えてくださった方々、

 

アドバイスをくださった方々、

 

沢山冗談を言って、私がなじめるようにして下さった方々の顔を見て、

 

離れることがすごく辛くなりました。

 

でも、もちろん決まったことは変えることできません。

 

そのまま私は異動になりましたが、

 

今なんとか頑張れている大きな支えに

 

前の部署で生まれた沢山の感謝が追加されました。

 

何もできるわけじゃないけど、

 

こんな私でさえも愛してくれる神様がいること、

 

神様が用意して下さった互いに立て上げるための教会があること、

 

働く場所があることは

 

私にとって十分すぎるほど与えられていると実感した1年でした。

 

今までに与えられた試練やこの道のりがこの先どんな意味を持つのか今は分からないけど、

 

もしかしたら神様に栄光を返せたり、

 

もしくは、大切にしたい誰かを支えるときの力へと変えられたり…

 

どうなるかは分からないけど、良い方向へ進んだら良いなと思います。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年

お久しぶりです。

 

クリスチャンで大学生のかれんです。

 

大学生でいれるのもあと1ヶ月くらいで、自分のこのブログ冒頭で毎回のように、大学生であることを主張してきたのにそれもあとすこしで終わりなのかぁ…とふと思いました。

 

それで、現在こうして見切り発車で書いています。

 

テーマは、大学の4年間についてなのですが、まだ内容に入ってないのに思い返すだけで涙が出てきそうですね…笑

 

そもそも、私のクリスチャンとしてのスタートを切ったのは、アメリカ留学中の大学一年生の冬でした。

 

1月21日の深夜に、その前日から参加していたクリスチャンの冬のリトリート(お泊まり会的なやつ)で夜のお祈りの時間も終わりかけに向かっていた時でした。

 

その時、一番私の面倒を見てくれてた一つ上のクリスチャン(でめちゃくちゃイケイケ)お姉さんに「最近どう?」って聞かれてから、

数分後にクリスチャンになっていました。

 

その当時、アメリカ留学に行ってから4ヶ月ほど経って、アメリカという異国の地には慣れたんだけども、物事が上手いこといかなくて辛かったのを今ではなんとなく覚えています。

 

もちろん、その一つ年上のお姉さんに聞かれた時は、はっきりと覚えていたのでそのことについて話しました。

 

割と、落ち込みやすいクセにその出来事過ぎたら忘れてしまう都合のいい脳みそを私は持っているので今はほとんど覚えてません。笑

 

留学始まってからすぐにそのクリスチャンの姉ちゃんと出会い、聖書のことを教えてもらったり、教会に連れてってくれたりしてくれて、最初は英語だし、内容も日本語で言われても分からんわな状態でした。

 

でも、私でも理解できるように簡単な言葉で説明してくれたこと、

私が話す拙い英語を最後まで聞いてくれたこと、

親元離れて暮らしている私に自分の家族を紹介してくれて、その子のお母さんからお母さんって呼んでねって言ってくれたこと、

そういう一つ一つの優しさが私には嬉しくて、尊敬しているところでした。

 

母国の日本にいても自分のことで一杯一杯で自分のことばかり考えて生きていた自分と、

人のことも考えて、優しく接するクリスチャンの姿に人としての強さを持っている彼らの姿。

 

すごくその芯のある、強さを持った優しさを持ったクリスチャンになってみたい。

 

そんなイマイチよくわかってないまま私はクリスチャンとしての一歩を踏み出しました。

 

そのあと、日本に帰国し、日本の教会で聖書について理解をさらに深めていくのですが、

聖書について、神様について学べば学ぶほど自分はいかに無力で弱くて、脆いかを知っていきました。

 

今よりもっとプライド高くて、完璧主義だった私は、その真実を目の前で突きつけられるたびに、聖書の言葉が嫌になる時期もありました。

 

でも、そうして背を向けていると就活、学業、アルバイト、人間関係など自分の状況がうまく回らなくなって余計に「しんどい」と感じて、全部やめて家に引きこもったこともありました。(そんな時もあったなぁ)

 

でも、それでよかったんです。

 

人生の歯車が回らなくなって、本当に自分は無力で弱くて、脆いかを否定せずに認めたときに、聖書の福音が身と心に行き渡って、息づくようになりました。(それまでに1年以上)

 

自分(能力や持っているものなど内側の力)、に頼らずに神様(自分とは異なる自分以上の存在=外側からの力)に頼って生きること。

 

肩の力を抜いて、生きてみると周りが見えることもありました。

 

私がアメリカで出会った彼女たちのように人に優しくできているかは、自分では分かりませんが(どれだけ優しいとか比べるものでもないから分からなくていいし)、

自分の周りのことを全部自分で背負い込まないで神様に任してみること。

 

そうすると、周りのことに気を配れるようになれたりします:)

 

それでも、自分のことで一杯一杯な時も全然あるけど!!

 

 

 

そんな風に考え方が変わると、今まで見えなかったことが見えてきたりしました。

 

 

卒業を目前にして、初めて母に心から感謝を感じるようになりました。

 

幼い頃から、英語が好きでそれを突き詰めたいと思い、私立の高校、大学、それに加えて3回の海外経験(長期も短期も含めて)、全て文句言わずに受け入れてくれました。

 

やりたいことを全てさせてくれました。

 

途中で投げ出したものもめっちゃあるし(マジでごめんなさい)、英語の勉強もやめたいって何度も諦めの言葉を母に言ったことがありました(本当にごめんなさい)。

 

でも、最後まで支えてくれました。

 

それも、自分でやり遂げたんだぜって思っていた自分が今となってはイタいというか恥ずかしいという感情でいっぱいなのですが、

このまま気づけないまま今も過ごせてたら恐ろしいなぁなんて思います…。

 

でも、素直に母に感謝の気持ちを持つようになってから、関係性が少しずつ変わって、喧嘩も減ったし、前よりももっと素直にお話しできるようになった気がします。

 

人生を変えるほど力ある神様の言葉の力を身をもって体験した4年間でした。

 

笑った日も、泣いた日も、怒った日も、悪さをした日も、誰かに優しくなれた日も、感謝で溢れた日も、いろんな日があったけれども、どんな日でも変わらない愛をもって私のそばにいてくれた神様がいてくれたこと。

 

そんな4年間の日々が私にとっての今後の財産になるだろうなぁ。

 

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正しいお箸の持ちかた


お久しぶりです。


クリスチャンで現役大学生のかれんです。


前回の更新からしばらく日にちが経ちましたね…。


どのように過ごされてましたか?


どうか心も体も健康でありますように。


私は、就職活動をして、就活が終わった後に運転免許証取得のために教習所に行っていました。


就職活動も教習所通いも、たくさんの学びとともに、無事に終わりました。


またそこで学んだこともシェアできるように、準備中なので、お時間があればまた見てください〜。


タイトルにお箸なんてありますが、正しいお箸の持ちかたでお箸を使うことができますか?


大抵の方は、できるとお答えになるかなぁと思います。


正しいお箸の持ち方ってめっちゃ綺麗ですよね。


でも、私は実は自己流のお箸の持ち方をしてて

そんなに綺麗じゃありません笑



そもそも左利きなので、そこから間違えています笑


昔、正しいお箸の持ちかたの練習できるお箸みたいなので、おばあちゃんやお母さんに教えてもらったりしていました。


でも、私がそのお箸持つと指がめちゃくちゃ痛くて、結局そこから今現在まで正しいお箸の持ち方ができずにいます。


めちゃくちゃ後悔してます笑


でも、ふと思いました。


誰がこのお箸の持ち方考えたんだろうって。


私には、他にもできないことが沢山あります。


習字、数学、スポーツ、

初対面の人に自分から話しかけること、

感情のコントロールなどなど…


できることもあります。


でも自分では、できることよりもできないことの方が沢山あると思っています。


自分の弱さ、できないこと


これらのことに向き合うのは、ときに苦しみや辛さの感情がでてきます。


私は、就活に向けた準備の時に向き合うことになりました。


就職活動が本格的に始まる3月より前に、面接練習や志望動機や自己PRの準備とかに沢山時間をかけていました。


就活サービスなんかを利用して、大人の人に手伝ってもらいながらでした。


でも、なかなかうまくできなくて、厳しい言葉も沢山かけられました。


そして、就活以外の他のことでうまくできなかった事があると、そのことにフォーカスしてますます私は自分が自分である事が嫌になる日が多くなりました。


なんでこんなことができないんだろう。

もっとちゃんとしてよ、自分。


そういった言葉が私の心の中でいっぱいになって、ある日突然、体が起き上がることさえできなくなりました。


できないことが続いて、いつの間にか自分に「何もできない自分」というレッテルを張っていました。


1日一食のご飯で、誰とも会話をしない日々が続きました。


誰にも弱ってる姿を見られたくなくて、神様からも離れて、人とも離れていきました。


そんな辛い時期を克服できたきっかけは、教会でした。


実は、そのとき、一番弱ってる姿を見せたくなかった場所でした。


感謝なことに優しい人が沢山いるのも知っていました。


なによりも神様が優しいことも知っていました。

でも離れていたのは、こんな何もできない自分はその優しさを受ける資格さえもないと思ってしまってたからです。


自分から手放した、神様と神の家族。


それを変えてくれたのは、ある一言でした。


一歩進もう。


教会に行けていない、神様に目を向けれていない私に、もうこれ以上失うものはないからと、前に進むことを教えてくれた言葉でした。


礼拝に出れただけで一歩前進だと励ましてくれたことが、どれほどありがたかったか。


クリスチャンならば、礼拝に出ることが当たり前だと思っていました。


でも、礼拝にさえ出れない心や体、状況になるとき、

初めて礼拝が当たり前ではないことに気づきました。


自分1人では何もできないとき、

どこかであるかも知れません。


自分1人では神様を礼拝できないとき、

あるかも知れません。


自分はクリスチャン失格だと思うとき、

あるかも知れません。


でも、たとえ何をすることもできなくても、見捨てない神様はそこにいます。


私の体験が私にとってその証拠となりました。


私は、言葉で心が弱っていきました。

でも、同時に言葉で再び前を向いて、神様を見上げれるようになりました。


言葉には力があり、それは良い方にも悪い方にも作用します。

人を苦しませることもできるし、人を癒すこともできます。


だからこそ、良い言葉を心にたくわえて、口から発して、自分から発する言葉が良いものであるようにと思うようになりました。


だからこそ、この言葉を使って発信できるブログをもう一度始めたいと思います。


良い言葉を誰かに届けたい、と思いながら書いています。


相変わらず、マイペースな更新になると思います。


良いタイミングで良い言葉を届けれるブログでありますように。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


では、また:)


感謝したいだけの第5回

 

気ままに更新しているブログももうこれで5回目です。

 

こうして続けれてるのは、読んでくださってる方のおかげです。

 

神様が自分の人生でどんな風に働いてくださっているのかをあとで見返せるようにと始めました。

 

軽い気持ちで自分のFacebookに投稿したら、びっくりしちゃうくらいコメントとか反応してもらえて、実は嬉しかったです。

 

ホント自己満足で始めたブログなので、読んでくださっているだけでも感謝なのに、

コメントや直接声かけて褒めてもらえるとやっぱり嬉しいです。

 

嬉しいのをあんまり表情とかに出せてないのは嬉しくて照れてるからです。

 

心の中ではめちゃくちゃ喜んでます。

 

これからも気まぐれに神様が教えてくださったこととかを書いていけたらなぁと思います。

 

これからもよろしくお願いします!

 

 

 

クリスチャンってなに?1

 

しばらく更新していなかったのですが、久しぶりに書いてみようと思います。

 

というのも…

 

夏休みに入ったのでようやく時間的にも気持ち的にも余裕ができました!!

 

1年と少しクリスチャンとして生活してきた中で、たくさんの時間をイエス様と過ごしてきて私なりにクリスチャンって何なのかを考えてみたいなぁと思います。

 

私なりの解釈なのでもちろん正解じゃないし、私の人生かけても大好きな神様はすごすぎて全部は分からないんです。

 

でも、神様が私という本当に平凡な日本人にどうやって働きかけてくれたのかを通して神様のすごさをお話しできたらなぁなんて思います。

 

エス様に出会った頃の私は、唯一得意だった英語を綺麗な発音でまるでネイティブの人のように話せるようになって、日本に帰ったらみんなからすごいって言われたいっていう(今思えばめちゃくちゃ恥ずかしい)動機で留学してました。

 

不器用とか空回りって言葉が私の特徴を表すのにぴったりなくらい、何をやってもどれもできなくていつも周りの子と自分を比べてひたすらネガティブだった私を変えたかったんです。

 

そんなへんてこな動機で留学行った私が出会ったのは、聖書でした。

 

最初は興味ない素振りをしてたけど、教会で流れる賛美が好きでした。

 

自分の部屋でHillsong worshipとかYouTubeで調べて流してたくらい(笑)

 

それからしばらくして解説がいっぱい載ってる聖書をもらって、聖書を読むようになって、聖書の勉強とかも友達とするようになりました。

 

英語でやる聖書の勉強会は正直何やったか全然覚えてないけど、とにかく雰囲気が好きでした。

 

知らない土地で慣れない激寒の気候で、日本人も他の国から来た周りのクラスメイトもそんな知らない子だらけで、心が折れそうな日もあったけど教会に行く日とかクリスチャンの友達に会える日はいつも心がわくわくしてました。

 

言葉だって通じてないときもあったけど、でも、それ以上にどこかあたたかくてやさしい雰囲気が好きでした。

 

それなのに、いきなり私は神様が喜ばれないことを片っ端からし始めました。

 

 

 

え、なんで?

 

って思いました?

 

私もなんでこんなぶっ飛んだことをしたのか分かりません。

 

でも、神様が本当にいるのか確信がなかったんです。

 

そして、クリスチャンの友達はみんな優しかったけど、聖書に反することしたら私のこと嫌になるでしょっていうまぁまぁ性格悪いことを当時は思ってた気がします。

 

なかなかやばい奴です。

 

でも、神様が人間にこれしちゃだめだよ、よくないよって聖書で言っているのは、神様が人間をコントロールしたいからとかじゃなくて、

それをすると人間の心がすごく傷ついてしまうからなんです。

 

実際、思い当たるところから神様に反抗してるとだんだん状況とか人間関係とか少しずつでも確実に悪くなっちゃったんです。

 

でも、神様は自発的に神様に反抗していた私にでさえ、愛を与えてくれました。

 

こんな私に神様が与えてくれた愛の方法は2つでした。

 

1つは聖書の御言葉。

聖書の御言葉は私の傷ついた心にすっと入ってきて、悲しいとかそんな気持ちでいっぱいだったのを自然と笑顔になれるような温かい思いでいっぱいになりました。

 

そして、2つ目はクリスチャンの友達を通してでした。

 

嫌われる覚悟でクリスチャンの友達に自分がしたこと全部話したとき、怒るわけでもなく、ぎゅって抱きしめてくれました。

話してくれてありがとうって、どうしようもない私を突き放さずに受け入れてくれました。

 

このとき私の人生どう生きるべきか決めました。

 

自分の周りの人が過去や今、どんな人であっても愛すこと。

それを教えてくれたイエス様の愛を信じて、生きていくことを決めました。

 

私にとって、クリスチャンとして生きていくことはそういうことでした。

 

エス様の言葉をここで引用すると、

エスはお答えになりました。

「『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが第一で、最も重要な戒めです。

第二も同じように重要で、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という戒めです。

 

これは聖書のマタイの福音書22章37節から39節という箇所に書かれている言葉です。

 

エス様を愛すことだって、自分の周りの人を愛することだって、自分を愛することだって簡単じゃなくて、

 

何度もイエス様の愛から離れてしまって、何度も転んですり傷ができるときもあるけど、そのたびに何度も見放さずに手を差し伸べてくれるイエス様がいます。

 

何度も転んでしまう私は弱くて、もろいけど、それでも良いんだよってイエス様が教えてくれるから良いんです。

 

私たちは強くなくても、イエス様の強さを学べてもっとイエス様と距離が近くなるから良いんです。

 

 

この世界では、どんどん状況が悪くなる世の中でどう生き残るのかを学ぶ機会がたくさんあります。

 

でも、イエス様は私たちに弱くても良いことを教えてくれてます。

 

その代わりにイエス様に頼ることを教えてくれてます。

 

神様も周りの人も自分も愛することを学んでいく中で向き合う自分の弱さもまるっと包み込んでくれるイエス様を頼りながら見上げながら生きていくこと。

 

これが今の私のクリスチャンとして生きていく中での1つの答えです。

 

簡単なことじゃないけど、でもこのことに人生をかけることは決してひとときも無駄じゃないことを学んでます。

 

 

なんか文章たくさんになってしまったんですけど、ここまでよんでくださっていたら嬉しいです。

 

少しでも読んでくださった方1人1人に神様の愛が伝わりますようにっ!

 

では、またいつか更新します~:)

 

 

 

就活、始めました。

 

吾輩は就活生である。

だが、就活で何をすればいいのかは知らない。

 

お久しぶりです。

 

大学生クリスチャンです。

 

早速ですが、なぜ冒頭の言葉のようになったのかをざっくり説明したいと思います。

 

就職先の希望とかはありますか?と聞かれると、即答で

日曜絶対休めること・大阪で勤務できること(できれば転勤なし)です。

 

そこで、短絡的な思考を持った私の頭は、公務員一本に絞った。

 

公務員試験対策に取り掛かるも、試験で圧倒的必要となる数的処理(数学みたいなのん)という科目で挫折。

数学というより算数からわかりません。

 

次に民間企業に目を向けた私。

 

業種も職種も何も知らないまま見切り発車。

 

最悪のスタートを切ったのにも気づかない20歳と2か月。

 

民間企業にしても業種も職種も知らずに、何をやりたいのかもわからずに、大パニック。

 

ついでにコロナだから就活ピンチじゃない?って声がいろんなところから聞こえてきて、さらにパニック。

 

就職できなかったらどうしようと思って、すがる思いでGoogle先生にヘルプを求めました。

 

「クリスチャン 就活」で検索すると、(もちろんのことですが)いろいろな意見が飛び交っていて、おもしろかったです。

 

原宿系とかゆるふわ系でもいろんな種類があるように、クリスチャンでもそんな考え方するんだって発見の連続でした。

 

その中で出会ったある牧師さんが書かれたブログを拝見しました。

ダニエル書1-6章を引用されていて、この先の就活や働くときに心にとめておきたいと思ったのでここに残します。

 

ダニエルは、異教徒の人たちに囲まれている環境にいました。

ダニエルが仕える王も、共に仕える仲間も異教徒でした。

王は金の像を作り、ひれ伏して拝むように命令しました。

拝まないなら日の中に投げ込むとまで言われました。

 

そんな国の中でも、ダニエルは忠実に仕え続けながら、まことの神様である主を愛することをあきらめることもしませんでした。

 

更に祈ってはいけないと命令が出ました。

ダニエルはその中でも祈り、そしてそのことが明るみに出て、罰として、獅子の穴に投げ込まれました。

 

しかし、無傷でダニエルは戻ってきて、ついに王も「…ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。」と言われました。

 

(自分なりにまとめたので、変なところがあれば教えてください!)

 

どこで、どんな会社で働くか、それを神様は見ておられるのではないこと。

神様がみておられるのは、私たちの心で、大事とされているのは私と神様の関係であって、職業ではないこと。

 

ダニエルは自分のボス(が作った法律)から祈ってはダメと言われても祈り続けました。

 

どんな環境にいても、誰から何を言われても神様との関係を大事にすることが大切なんだと教わった気がします。

 

また、その牧師さんは別のブログでおっしゃっていました。

 

専業主婦も立派な仕事だ。

 

子育てをしながら家事もして、それは年収にすると1200万にもなるらしいのです。

 

 

お母さんって大変なんだってその記事を読んで、気づかされました。

 

私のお母さんは働きながら私を育ててくれました。

 

苦労とかしんどそうな顔はしない人です。

 

だから、お母さんの苦労とか全然考えずに過ごしてきました。(めっちゃ悔い改め)

 

もう母の日から少し日は過ぎてしまったけど、お母さんがお母さんで今までいてくれたことに感謝してもしきれないなと、今までの行動を振り返って反省しました。

 

もちろん、お父さんも大変だと思います。

 

どの働きも職業も大変だけど、それでも毎日頑張っていらっしゃるんだと思うと、働いている方全員すごいですよね…。

 

数学ちょっと分からないから、オンライン授業大変だからってあきらめたり、へこんでられないなって励まされたのでブログにしてみました。

 

壁にぶち当たっても、そのたびに神様との関係が深くなるなら、苦手な算数も(話すタイミングいまだにつかめない)ズーム授業も頑張ります。

 

もちろん、毎日神様を第一にしながらですよね!

 

就活のことなんて全然まだ分からないことだらけだけど、この就活を通して神様の栄光をお返しすることができますように。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました;)