頑張りは報われるという望み

 

どこかの場面で必ず聞いたことがある。

 

頑張りや努力は報われるという言葉。

 

誰が言いはじめたのかも分からないけども、

人生でどこかの場面では聞く言葉。

 

 

でも、経済的にも世界情勢も安定が不安定に変わっていくとともに、

この言葉に望みをかける人もだんだんいなくなっただろう。

 

この言葉に対して、否定的な感情を持つ人、違うとはっきり主張する人も多いことも事実だろう。

 

報われることを期待しない方が傷付かずに済むのならと思い、私も努力や自分の頑張りが

報われることを諦めた方の人間である。

 

 

社会人1年目を終えるこの時期にこんな冒頭で始まるブログを書く私は自分でも大丈夫かと思う。

 

事実、大丈夫ではなかった場面も多々あっただろう。

 

 

自分が耐えたら誰にも迷惑を掛けなくていいと思い、少しずつネガティブな感情や出来事は

自分の中である程度消化してから、冗談ぽく話すことが私の中でのルールだった。

 

それで何度も耐えて、乗り越えてきた。

 

でも、時々自分1人では耐えれなくて、

 

日々すり減っていく心を無視し続けて、SNSや他の楽しみに目を向けて、

逃げて、みなかったことにし続けてたら時々些細なことで感情が溢れ出して止まらないことがあった。

 

それが1人でいる時もあれば、誰かといる時もあった。

 

 

そう思うと、感情は安定していなかった。

 

でも、日々チクチクと何かしらですり減った心を隠すのはきっと上手くなった。

 

大丈夫じゃなくても大丈夫と振る舞えるようになり、そんな大人になった。

 

こんな私でも昔は常に感情が大爆発するタイプの人間だった。

 

でも、そんな大人になった背景には、周りも大丈夫じゃない人がいることに気づいたこともある。

 

私よりも歳離れた大人の人でも、このパンデミックや戦争、日々流れる不安や心配を増大させるニュース、

日々の小さな会話の中でモヤモヤを抱いている。

 

完全に大丈夫な人はきっといない。

 

 

私は聖書を読む人間だが、聖書に描かれるクリスチャンもそしてイエスさまも

毎日大丈夫な人はいなかった。

 

エス様も怒ったし、悲しんだし、もどかしさも感じていた。

聖書を熱く伝え続けたパウロも死、誰かから向けられる憎悪、悪意なんかと沢山戦いながら、

それでも彼の情熱は消えることなく福音を伝え続けた。

 

だからと言って、日本というほとんどの人が銃を持たず、死と日々となり同士なんて状況ではない場所で生きる我々が

良い状況かと言われればそうではない。

 

理不尽やSNSで友達がキラキラした日々を送る姿をお家で1人寝転がりながら見て、なぜかそんな自分に嫌気がさしたり、

(だって家でゴロゴロは何も悪くない、むしろその時間がSNSでは映えないけど、それが必要な自分がいるのも事実だから)

ちょっとした言葉が他の人の心に悪いように残らないか、を気にしたり。。。

 

 

現代人は戦うものが多い。

 

それも個人戦

 

そんな中で、頑張っても報われるは酷である。

 

情熱であり続ける方が難しい。

 

情熱を邪魔するものが沢山ある。

 

 

 

 

でも、今のこのままでは嫌なのも事実である。

 

全然まとまらないけど、つまりはこの状態でどうすれば今よりもう一歩進むことができるか。

 

進めなくても、また歩みを始めれるように今どう立ち止まるか。

 

進めず立ち止まっていても、前を少しでも向ければその立ち止まりは正解だと思った。

 

頑張るや努力は前向きだけど、立ち止まるやおやすみは後ろ向きでネガティブに捉えられる場合もある。

 

だけど、将来前に進むためのエネルギーチャージができるのなら、きっとそのストップもお休みもちゃんと

頑張ると努力と同じくらい大事だと思う。

 

 

私は感情がコントロール不能になると、一度シャットダウンすることがよくあった。

 

スマホOFF、外に出ない、お家でぼーっとする。時々、辛いこと思い出して、1人で涙を流す。

 

これを昔は罪悪感を持ちながら、シャットダウンしていた。

 

でも、これを繰り返すうちに気づいたのは、これは再起動するためのシャットダウンだということ。

 

 

 

今は仕事があるから、という社会的責任が増えたのもあり、一切しなくなった。

(土日休んでも、どうせまた月曜日仕事だし、これ以外でモヤモヤ解消しようという思考が今はあるけど、

この先どうなるかは私も分からない)

 

でも、あのシャットダウン期間は私には必要な休みだった。

 

人から離れることで私は1人ではなかったことに気付いたし、

誰かを頼らずに自分のことに向き合う時間も持てた。

 

 

きっとクリスチャンになっていなければ、この期間は病みとして扱い、

ポジティブではない自分は間違っていると認識で終わっていたと思う。

 

でも、クリスチャンとして全てが益になることを知っているから、

その時は死にたいくらい辛くても、後になって肯定的に振り返ることができた。

 

クリスチャンは何も知らない人から見れば全く訳のわからない集団だけど、(私も過去そうだった)

良いことがあることをここに誰が見るのか分からないけれどもこうして残していこうと思う。

 

 

 

 

気が向いたら。